📝 Note
高考(ガオカオ)は中国の全国統一大学入試。高校の最後に一度きり行われ、ほとんどの受験生にとって、進学できる大学はこの一度の試験だけで決まる。中国では、青春は「高考前」と「高考後」に分けて語られるのが常だ。この文章は旧ブログの最初の記事で、結果が出る前、模範解答を受け取りに学校へ戻った日の午前に書いたものである。
正直に言うと、いま僕はひどく緊張している。午後に模範解答を受け取りに行くからではない。出来がどうかは、とっくに自分の中で見当がついている。ただ作文だけは、思い切って攻めた書き方をしたせいで、かろうじて非現実的な期待をひとつまみ残してくれている。僕を本当に緊張させているのは、こういうことだ——これからは、自分の人生と真剣に向き合わなければならない。やりたいことを今すぐやらない言い訳はもうないし、何でも気の向くままに「高考が終わってから」へと先延ばしにすることも、もうできない。
好きに浪費できた日々は、これで永遠に戻らない。もう以前のように、心置きなく気ままにだらけて、都合が悪くなればDotaの話ではぐらかす、というわけにはいかないだろう。今日できないことを、明日に期待してはいけない。実のところ、これまで難しいと感じていたことは、いまも同じだけ難しい。本を開いても序文と目次しか読まず、理論は表面をなでるだけ、技術はさわりを覚えて終わり。かつての僕には高考という盾があったかもしれない。だがこの先も同じ調子でいれば、この一生は浅薄と連れ添うことになり、深みに埋もれた美しさに出会う幸運には、もう恵まれないだろう。三年間を振り返れば、自分を引っぱたきたくなるほど愚かなこともしたし、いまの僕がほっとするようなこともした。過ぎ去った時間について、正しいも間違いもないし、後悔も誇りもない。ただこれを戒めに、率直に生活と向き合い、逃げないこと。それで十分だ。
もちろん、盾を失うのと同時に、僕は枷からも抜け出した。学生時代の画一的な基準は、ある人にとっては幸運でも、僕にとっては不運だった。みんながその基準に向かって努力している間、僕はその基準の裏にある意味を疑っていた。弱い人間のすることかもしれない。でも、誰が本気で気にするだろう。今日からは、教科書に何と書いてあるかを気にする必要はない。自分が真理に一番近いと思う記述だけを覚えておけばいい。真理の簡略版を暗記するだけではもう満足しない。その導き方を、意味を、背後にある物語を、自分で見つけに行く。これは自由であり、挑戦でもある。是と非も、真理と誤謬も、自分で見分けるほかない。完全無欠な証明のほかに、僕を納得させられるものは何もない——滔々と語っているのが、アリストテレスやニュートンに並ぶ人物、スピノザやラッセルと肩を並べる大家であったとしても。
ああ、僕と級友たちは、もうすぐ別れる。僕らと一緒に去っていくのは、かつての青くさい僕ら自身だ。この学校にまた足を踏み入れる機会は、もう多くない。国語の先生にこう言ったのを覚えている——もうすぐ学校を出るのに、花壇の花の名前をまだ全部は言えないんです。するとその男の先生は笑って答えた。「大丈夫、うちの生物の先生だって全部は言えないから」。僕はよく考える。十年後、僕とこの級友たちは、それぞれどんな人間になっているのだろう。それは本当に分からない。学生時代は、人生の頂点にもなりうるし、どん底にもなりうる。ここで最良の自分と別れてしまう人もいれば、ここからようやく幸福な日々が始まる人もいる。実のところ、若い人間はそう捨てたものじゃない。大人になってから、人は醜い仮面を一枚、また一枚と自分にかぶせていくのだ。大それた志はない。ただ十年後、自分の嫌いな人間になっていないことを願うだけだ。
失うものがあれば、得るものもある。今度の高考を通じて、僕はひとつの事実を確かめられた。僕という人間は、肝心なときに実力以上を出せるとは限らないが、出すべき実力はちゃんと出せるらしい。もちろん、それは普段のちゃらんぽらんの言い訳にはならない。それでも、肝心なときの自分の心持ちには自信が持てた。この恩恵にあずかるのは、きっと試験だけではないはずだ。
2014年6月9日
自宅にて